岡山光風会の歴史

*光風会100回記念特設サイトより転載
*執筆内容は2013年4月現在のものです

●はじめに

一口に言って岡山は開明の気風漂う地域である。温暖な気候災害の少ない土地、陸地、海運の流通の要衝として、古くから培われてきた豊かな生産と蓄積は、高い文化を生み且つ育ててきた。この恵まれた風土は此処に住む人の優しさを育み、この地域に流入する人と文化を受け入れるのに些かの抵抗もなかった。

 

中央の権力から一定の距離を持っていたからとは言え、富と権力争奪の戦端をおこすこともなかった。源・平、織田・豊臣・徳川、薩摩・長州・土佐・肥後の明治にいたる離合集散と武鬧も、この地域の住人にとっては無関係の時間空間であった。これを軟弱の気風と蔑むかー。一画聖・雪舟等楊は備中の人、剣豪・宮本二天は作州の生まれ、その晩年は剣画一如の境地を拓いた。

 

そして、明治時代は富国強兵と欧風文芸吸収の時代である。それは欧風と国風の熾烈な闘争と言われ、官営美術展(文展)を二分した白馬会と明治美術会の教義論争であり主導権争いであった。しかし、現在の文化状況から見れば、作家個人の組織への帰属意識も希薄な大らか時代であったと判断される。

 

●明治45年白馬会解散を受けて

明治から大正期の岡山出身あるいは関係(現住記録)の洋画家を列挙すれば、国吉康雄、竹久夢二、満谷国四郎、松岡 進、正宗得三郎、児島虎次郎、赤松麟作、柚木久太等が挙げられる。国吉康雄を除く作家のすべては「文展」とその傘下の明治美術会、日本水彩画会、白馬会のいずれかに出品し、文展を共通の最終評価の舞台とした。([資料1]参照)

 

なお、特記事項として、1924年(大正13年)の第11回光風会展には、特別陳列として大原美術研究所所蔵のジョヴァンニ・セガンティーニの「アルプスの真昼」とポール・ゴーギャンの「タヒチの女」が展示された。

 

●太平洋戦争終結後

1947年(昭和22年)第33回光風会展が東京都美術館で再開され、岡山関係でいち早く出品を再開したのは、会員の池上 浩、野平 上であった。翌34回展に日原 晃、有元康道が加わり、35回展には多和 薫、西田 亨、尾崎 侃が参加した。昭和25年の第36回展に際しては、会員の吉田 苞と妹尾壽信、そして小林易夫、千原成一も参加し、この年「光風会岡山地方連絡所」が設置され野平 上宅を事務所とした。

 

第37回展では尾崎 侃、小林易夫、野平 上、日原 晃が新会友に推挙され、久山 章も新加入した。見落としてならないことは、昭和23年1月に第4回日展地方会場が岡山天満屋百貨店で開催されたことである。東京、京都を除いて地方都市での開催はこれが最初であり、日展にとっても歴史的事業であった。それは岡山に留まらず西日本の広い地域に衝撃を与え、連日鑑賞者の列は途切れることがなかった。光風会も昭和26年の第37回展から昭和49年の第60回記念展にいたるまで計18回の岡山巡回展を開催した。また、巡回展を開催しない年は岡山在住作家展として「岡山光風会展」を開催し、途切れることなく活動を重ねている。巷間“日展王国・岡山”で、光風会は最大・最高の洋画団体として評価を受け、また自負するところとなった。

 

岡山地方連絡所が設置された昭和25年以降、研究・製作・発表にわたる展開は目覚ましいものがあった。その中核的指導者は津山在住の日原 晃であった。絵画研究と発表の機会を求めて光風会に集まった者は、岡山県内のみならず、広島県東部地域からの岡崎勇次をはじめ熱心な顔ぶれが定期的に参加した。(その後、広島地方連絡所の設置とともに、広島は分離独立して独自の活動をすることになった。)

 

当時、岡山連絡所に所属の半数は津山近辺の人材が占めていた。美大・芸大卒の気鋭の若者も少なくなかった。支部組織を整備して作品研究会も不定期ながら年間複数回実施され、東京在住の光風会幹部諸先生を迎えての研究会も企画実施された。来岡指導をいただいたのは、(敬称略/以下同様)辻 永、寺内萬治郎、中村研一の各理事(当時/以下同様)、新道 繁、田村一男、藤本東一良の各評議員、そして寺島龍一、清原啓一の諸先生で、特に新道 繁、寺島龍一、清原啓一の各先生には足繁くお運びいただき交流を深めた。

 

温暖な岡山の風土は多くの来訪を誘い、昭和38年以降特に牛窓のオリーブ園は、佐竹 徳(日本芸術院会員/平成10年歿)の生涯の仕事場となった。佐竹 徳の人柄を慕って野平 上ほか県南部在住者の大半がオリーブ園に殺到し、東京都美術館をオリーブで染めた10数年間も記憶に新しい。

 

昭和53年は、日洋会の旗揚げによる大変動の年であった。光風会の岡山在住者に動揺の動きはなかったが、県外で活躍する類縁に退会者を数えた。また、光風会巡回展(岡山会場)開催は、昭和54年の第65回記念展を最後として以降は記念展毎の開催に縮小された。これは高齢会員の重なる逝去と、世代間の意見の相違によるものであった。事実それは危機的状況と言って誇張ではない酷いものであった。(左欄の個人歴の没年を注視されたい)すなわち平成初頭期10年間に、光風会会員の逝去または退会は10名を越すものがあり、事務連絡で光風会本部に電話を入れると「また訃報ですか」の言葉が返ってくるほど切迫感に包まれていた当時の記憶を思い出す。通例一般出品者を会員に育て上げるのに最短10年を要すると読む時、岡山支部解体は全くあり得ないことではなかった。

 

しかし、光風会岡山支部の衰退をそのまま指をくわえて待つわけにはいかない「世代」が生きていた。

 

●新たな展開の平成時代

昭和30年代高度成長期に加入し、今は指導的立場を期待される第2世代により新たな展開を迎える。新指導層は次世代を内輪の競合者としてよりも外への戦闘集団として育成を目指し、機会を与えた。

 

多くの教え子たちや絵画愛好の成人は、光風会に大きな可能性が在り、未来を賭ける夢のある若い集団であることを確信して参加した。最初の取り組みは昭和63年に始まる。岡山支部全員を対象にしての毎月の定期研究会の開催であり、並行して展開した美術専攻の大学生・卒業生10人あまりによる習作(50〜100号)展の定期的開催であった。月1の定期研究会は平成25年現在も盛会裡に継続中である。(特記すべきは指導者は無報酬を堅持してきた。指導者にその覚悟が無ければ成果は上がらないーー)

 

美術専攻学生・卒業生による習作展は「グループ8」の名称で10年続けた後休止するが、必要に応じては顔ぶれが変わっても再開するものとした。休止の意味は解体ではなく、このメンバーが毎回の光風会で受賞を重ねる嬉しい状況を生み出した。

 

それが、現在の光風会監事・石田宗之であり、関野(佐藤)智子である。この両者はいずれも数度の奨励賞・会友賞・会員賞を受けた。他に光風賞の船越、奨励賞の岸本、常原が在り、光風会の外での評価は、石田の日展特選・審査員、佐藤の昭和会展・松村賞がある。これら新世代の活躍に刺激され、一般社会では高齢者と言われる世代の活躍も際立ったものがありーー。毎年の日展入選者数を傘下の美術団体の岡山県内バランスシートでは、過半数を割った年は皆無の誇りは堅持している。いまや第3期の高揚期を迎えるにいたった。

 

光風会中央との連携を強める中で、岡山に縁(ゆかり)の理事長・寺坂公雄先生、清原啓一先生の後継、藤森兼明先生の御指導のもと大きな飛躍を続けている。

 

その他、大きな行事としては平成16年5月、光風会夏期講習会(風景班)が岡山光風会主管のもとに4日間開催された。実施地域は倉敷美観地区、瀬戸大橋で宿舎は倉敷アイビースクエア。3日目は雨天のためホテル内でコスチュームモデル実習を実施した。120余の参加者と、池山阿有、金山桂子、杉山吉伸、西山松生、藤森兼明、守長雄喜、渡辺 晋、福島隆壽の講師陣と、地元会員の坂手得二、石田宗之ほかの誠実な活動により成功裡に終了した。

 

なお、岡山地方連絡所設立以後の歴代事務所担当者は順に、野平 上、坂手得二、祇園卓志、千原成一、高山 始、福島隆壽、石田宗之が引き継いでいる。

 

〈追補〉

 

美術団体は日本独自の特異な文化形態と言われる。その盛衰興亡も特異な文化現象であるかも知れぬーー。

 

平成23年「一般社団法人光風会」として改組し、平成26年は100回記念展開催の年として、いずれも永く記憶される時となる。岡山光風会も生成する組織として、事務所開設以来64年を数える。芸術は個人の所産であるとの幻想に大きく支配されている。

 

芸術は時代を生きる個人が、時代に託されて創り出したものである。情報から隔離された芸術の胎生はあり得ない。情報を比較し選択できる人間の集団こそが、鮮度を持ち抑制と品格を保つ芸術と芸術家を生み出すーー。光風会を近代日本美術の保守本流との評価は誇るべき名称であり、変動の時代に生き続けた100年の本流の時間そのものが貴重であると言うべきである。

 

(執筆者/福島隆壽)

白馬会・光風会に作品発表した作家

太平洋戦争終戦後に作品発表した作家

岡山地区在住者(一時期)の光風会出品者